不登校の事

不登校の事    

  ・・・・・私(親)の反省を込めて・・・・・・   

私の娘は幼稚園でも不登園になり、小学1年生時にも短期間ではあったが不登校になった。それ以降は、学校生活の中でいろいろなトラブルがありながら何とか登校できていたが、小学5年生の6月ごろから「不登校気味」になり、中学を卒業するまでの義務教育の間、その状態が続いた。発達障害を持つ人の中で、普通に登校できる人もいれば、うちの子のようにどうしてもできない人もいる。一緒に生活をする家族として、子どもの生活背景の環境の選択や整備に一番の責任を持つ親として、その事をどう考えて来たのか、現在通信制の高校に通う娘に対する理解の過程を思い起こして書いてみる。

 

「学校に行かなければならないと思うと胸が苦しくなる」と娘が私に訴えたのは、小学4年生の終わりごろだった。そのころは疲れていても眠れなくて夜中の3時ごろまで起きている事がよくあったので、精神科を受診してお薬を処方してもらえたら、と思っていた。行くには本人の承諾が必要だと思っていたので、その旨を本人に話し承諾を得て受診させた。いただいたお薬はよく効いたようで、「もう大丈夫」と言い、その時は不登校になることはなかった。学校で起きるトラブルの多くの場合は、特定の男の子に「バカ」「死ね」などといわれて、怒った娘がパニックになるというパターンで、娘はきまって家で腹痛と下痢になった。それが、めっきり減っていたので、本人に適応力がついてきたかな?と思っていた。

 

小学5年生になってクラス替えがあり、間もなく女の子とのトラブルが立て続けにあった。女の子同士のトラブルは初めてで、思春期に入りかかった時期の新たな難しさを感じた。担任の先生の介入で収まったが、6月の運動会が終わった直後から疲れや頭痛を訴えて早退することが増えた。そのうち「行きたくない」と言い出した。委員会やそうじ場でのトラブルもあると聞いたし、蒸し暑さで体調が悪いとよく訴えていたけれど、ここで行かなくなったら二度と家から出られないのではないか?と、そんな思いにとらわれて、何とか行かせなければと必死だった。或る時は乗せた車ごと学校において、ある時は羽交い絞めにして玄関まで連れ出そうとしたが、本人の力の方が強くあきらめざるを得なかった。

 

担任の先生と相談し、定期的に通っていた教育プラザ富樫の相談員の先生にも相談して、親としてはしぶしぶ夏休みまで休ませることにした。その代わり夏休み明けには登校する事を本人に約束させたと思う。夏休み明けには、うそのように登校できると期待していたが、9月の合宿の前に数日登校しただけで、普通に登校する状態に戻る事にはならなかった。担任の先生は娘にトラブルが生じるたびに話をじっくり聞いてくださり丁寧に対応してくださっていたし、何かのきっかけで普通に登校できるのではないかという甘い期待があった。何を根拠にというと、そのような成功話をどこかで聞いたことがあった、という程度の事だと思う。

その年の11月にエルデの会のケース検討会で娘の事例が検討された。通常のケース検討会では、親と支援者が子どもの日常に起こったエピソードを報告してその意味を考えるのだが、その時は学校の担任の先生も参加してくださり、学校で休み時間や教室に入れないときによく行っていた保健室の先生からレポートが届き、私からはわずか10問の漢字の宿題に頭痛を訴えて手間取っている娘の家での様子のビデオ映像を用意した。担任の先生からの報告は、「もっと仕事をさせてほしい」「自分の容姿が気に入らない」と訴える事がよくあるということであった。座席の位置や発表会での位置について嫌だと訴えながら「特別な事(配慮)はいらない」と言うことや、合宿での娘の悪気のない発言にクラスの女の子が気を悪くしたエピソードも報告された。情報処理がうまくいかないという特性は変わらないけれど、それまでには感じなかった周りの様子が少しずつ見えてきて、自分は周りの子たちとは違うと気づき、疎外感や自分への否定感などを感じるようになってきたことがうかがえる。そうなのだが、私がその時のケース検討会に求めていたのは、「なぜ実際の社会と本人の理解の乖離が『ひどくなった』のか?」に対する答えであり、「普通に登校する状態に戻れる手立てはないのか?」に対する答えであった。つまり、私の心配の事態を改善できるものを探し求めるばかりだったのである。

 

その頃、薬を処方してもらった精神科で受けた知能検査でIQが130近くという数値が出て、主治医の先生に「高いですよ」と言っていただいた。小さいころから多動やパニックで思うようにいかないことだらけの子育てを経て今度は不登校と、親にとっては報われない思いが募る中、何か初めて良いと褒められた気がした。その知能を生かして将来は一発逆転の事が起きるのではないか?と親の欲が湧いたのを覚えている。だからこそ、普通に学校に通って勉強してほしい。当時本人が漫画の影響を受けて「獣医になりたい。そのために北海道大学に行きたい」と言っているのを真に受けて、学校に戻れば本当に獣医になるかもしれないと、親心らしい浅はかな期待がふくらんだ。

 

5年生の秋ごろになると、それまでは出来ていた算数のテストもできなくなってきた。面積など内容が複雑になってわからなくなったようで、一発逆転で自立につながるはずの道が途絶えてしまう、これは取り返しがつかなくなる!と焦りにかられた。そのころ娘は学校の担任の先生に「母さんから、学校に行かんと獣医になれんよと言われる・・・」と、不満をもらし、「少しも体調が悪い事をわかってくれん」と言っていたようである。私はというと、偶然に講演会で知った療育的指導に心を奪われていた。講師の話を聞いて、「療育」は発達障害の人がもつ弱さを変えることができる特効薬のように思われたのである。表現が苦手な娘がそのプログラムによって表現の方法を身につけて精神的に楽になり学校に行けるようになるのではないか。消えかかった道が再び見えてくるように感じた。その思いをエルデの会のアドバイザーに告げると、「この子は療育でできるようになる程度の表現の問題でつまずいてるんじゃないよ。この子が本当につまずいてること、この子が困っていることを既成のプログラムで簡単に変えたりできない。障害なんだから。変わらないところを認めることが大事だと小さいときからずっと言ってきたよねえ。なぜ今になって揺れるの!」とひどく叱責をされた。あっさりとその療育をあきらめたのは、正直なところアドバイザーの言葉に納得して反省したからではない。私自身が本来めんどうくさがり屋で勉強嫌いだったからである。いずれにしろ、この期に及んでようやくに「変えることができない」と腹をくくることになった。

意識して変えたわけではないが、私の中でケース検討会の意味が変わってきた。この子は変わらない。ならば知りたい、私の娘がどんな人なのかを。それまではケース検討会に求めていたのは親や周りの大人が困る子どもの言動を直すための手立てであった。けれどケース検討会はそんな答えを探すためのものではないと思えてきた。この子は何者なのかを知りたい。そこに迫るためのケース検討会なのだ。

 

その1年後のケース検討会にも、持ち上がっていただいた担任の先生は引き続き参加してくださった。その頃には私も不登校気味の状況をなんとか受け入れていた。ある日突然に普通に登校するのでは?という期待は担任の先生も私もしなくなっていた。エルデの会では通常の活動には参加しないものの、サブディレクターの先生と会のメンバーの女子中学生の3人で外出するという活動プログラムを組んでいただいていたし、合宿にも参加し、私の大きな心配であった「家の外に出る事が出来ない」という状態は回避されていた。IQの高さへの私の期待も、獣医さんへの夢も、飼い始めた犬のウンチの世話ができず「こりゃ獣医は無理だわ」ときっぱり娘が言うのを聞いて、あきらめざるを得なかった。

 

「私はLDか?」と娘が聞いたのは小学4年生の頃だった。当時、会では中学生の男の子たちが活動中に自分たちの障害の事を話していたようで、それも影響していたかもしれない。突然の質問に私は驚いて思わず「えっ、なんでわかったん?」と返事してしまったのだが、娘は「だって、エルデの会のエルデはLDのことやろ」と言った。LDがどんな事なのかその時にはわからずじまいだったと思うし、さらに質問してくることもなかった。私が娘の不登校を受け入れるようになった頃、娘は自身でインターネットでLDを検索して、「耳の状態はLDと一緒だ。ざわついた教室で、○ちゃん(娘の当時の友人)の声が本当に聞こえない。小さいころからそうだった」と言った。そういえば、やたらと教室がうるさいと訴えていたし、さかのぼってまだ幼稚園にもいかない頃、家族でカラオケに行った時にやたらと帰りたいとぐずってあばれ、帰宅後に吐いた事を思い出した。映画館も途中で気分が悪くなった。いろんな音のする教室にいること自体、かなりのストレスで、その状況の中で先生の声を聞きとって進んでいく学習についていけなくなるのは当たり前の事なのだ。

 

その後、現在まで娘のケース検討会は3回行われている。2年に1回くらいのペースである。家庭での日常にどんな事があったかの記録を私なりにまとめてきた。また、他の会員のお子さんについても同様にケース検討会を何度も繰り返ししてきた。エルデの会のメンバーに共通する特性がなんとなく浮かび上がって感覚的につかめてきたように感じている。また、似たような様子に見えても障害の中核になるところが異なると思われるアスペルガー症候群や高機能広汎性発達障害のお子さんのケース検討会から、障害による特性の違いもつかめてきた。共通する特性と一人ひとり異なる躓きが少しずつではあるけれどわかることで、不登校気味の娘の言動がちょっとずつ理解できるようになってきたように思う。一緒に暮らして、通常のレールから大きく外れた娘なりの成長に、「それもあり!」と納得し安心できるためには、子どもの言動の意味と背景を発達障害という視点で見る必要があるのだと思う。会の発足と同時に始めたケース検討会である。なぜ検討会をするのかわからないままに積み重ねていたのだが、「その人に何を求めるとその人が苦しいのか」「その人の持ち味は何か」というその人理解のためのものであること、それこそが理解や支援に必要なことなのである。

 

 

これを読まれた同じようなお子さんを持つお母さん、お父さんへ。

 

わが子の不登校という現実は親にとり胸をえぐり取られるような苦しい思いだと思う。でも、一番その状況に苦しんでいるのは本人であることをわかってあげなければいけないと思う。日常の様子からはなかなか理解しがたいと思う。例えば、うちの子は休んでいるときにパソコンゲームで大笑いをしていた事がよくあった。見ていると、思わず嫌味の一つも言わずにはいられない。でも、彼らは苦しい心中を上手に表現することが大いに下手なのだ。根底には社会から外れる苦しさを嫌というほどに感じている。昼夜逆転はその苦しさの表れであると思う。また、わが子理解は親だけでは無理で、周りに利用できる同じような障害を持つ親の会や相談機関等を頼った方がいいと思う。出来きれば、本人を理解できる家族以外の人を少しずつ増やすといいと思う。親心というのは時として、いや往々にして、良かれと思ってすることが本人を苦しめることになる。「本人の尊厳を守る」という事を第一に考えてぶれず、長きにわたって付き合ってくれる支援者や専門家に出会われる事を祈っている。

 

ところで、娘は会のディレクターから「おんな寅さん」という異名をいただいている。縛られることなく、ひとところに落ち着かず、面白い事を言ってまわりを和ませて、ひょいといなくなる。寅さんが生きたのはまだ寛容な社会があった昭和の時代だ。うちのおんな寅さんがこの窮屈な平成の時代を寅さんらしく生きられる環境を作ってやれるだろうか?この親である。また、良かれと思ってはずれた事をするだろう。娘が、母である私のしたことを思い出してやりきれない怒りを感じることもあるかもしれない。そんな私ができる事は、ありのままをわかろうとし続けてくれる人たち、会の支援者や、会の仲間、会員の家族との継続した関係を作ることなのだと思う。